「悪魔の涙」振り返り①
プロジェクト「Act」Tokyo第四回公演「悪魔の涙」5月1日をもって無事千秋楽を迎えさせて頂くことができました。
今回は振り返りの第一回として、「悪魔の涙」製作の背景などから振り返らせて頂きます。
昨年1月の第一回公演の演目とほぼ同じ台本で挑んだ今回。この一年の活動で培ったノウハウや新たに得た価値観を基に、全く違った世界観を作り出そうと試みました。
前回公演で使用したカラヤン(Herbert von Karajan)指揮のモーツァルト・レクイエム(1961年盤)(以下モツレク)を劇中曲として使用するカラヤン組に加え、リヒター(Karl Richter)指揮のモツレク(1960年盤)を使用するリヒター組のダブルキャストとして、壮大な世界観を持つカラヤンと宗教音楽らしい厳粛さを持つリヒターの音楽の世界観をそれぞれストレート芝居の内面的表現で表現することでした。
これがどこまで実現できたかは未知数ですが、ともあれ、そういった目標がありました。
この楽曲を使用する理由は複数あります。人生と死、他者の幸福の為に自身の魂を捧げる至上の愛、そして「人間の人生そのもののような何か」を扱うために必要な音楽はこの楽曲以外に思い当たるものがありません。
あらゆるもの事が分かり易く、単薄で、茶化されて済まされることの多い現代社会で、自分の人生や自分の周りの人の人生について、また命や愛の本質について俳優や観客と共に立ち止まって思慮するために必要な音楽はこの楽曲以外に思い当たるものがなかったのです。
筆者は大変恥ずかしながら音楽分野の教養があるわけでも、クリスチャンでもなくましてラテン語も知らないこの域のド素人ですが、モツレクは、宗教音楽やクラシック音楽の領域を超えた、この瞬間を尊いものに変える人類普遍の旋律であると信じています。
悪魔や無償の愛、モツレクといった宗教的なにおいが漂う当演目ですが、可能な限り宗教的なフィルターを外してみて頂きたいものでした。
例としてはラストシーンで「祝せられるもの」がカットアウトし、ヘンデルの「オンブラ・マイ・フ」で終演という形になったのも、宗教的なフィルターを通してではなく、一人間の人生を表現したいという意思からでした。
歌詞がとても素晴らしいので転載します。
Ombra mai fù
di vegetabile,
cara ed amabile,
soave più
かつて、これほどまでに
愛しく、優しく、
心地の良い木々の陰はなかった
テーマについて。
「無償の愛」の他に、今回あえて表現に努めたのは、価値観の急激な変化に苦しむ昭和の男達、もっと言えば「昭和」という概念に対しての言わば「レクイエム」としての世界観でした。平成が終わり、令和を迎え、昭和という時代がいよいよ歴史になろうとしている昨今。それでも昭和生まれ、昭和育ちの男性たちは、令和の時代を生きていかなければならない。主人公「橋本秀一」からその苦悩の一部を共感できた方がいらっしゃれば幸いなところです。
カラヤン組とリヒター組の違いについて。
特別に大きな違いを持たせたつもりはありませんが、一番大きな違いは、ラストシーンです。カラヤン組の娘、唯(大関愛)は、天使となり地上に舞い降りて父、秀一(寺尾海史)を迎えに行きます。
対してリヒター組の唯(五十嵐咲帆)は、小さな神様となり、父(山田昌)と天上で再会します。
また悪魔について、リヒター組の悪魔(立花小春)は、彼女の感じるままの悪魔を演じて頂いたのに対し、カラヤン組の悪魔(山口翔平)には、月をイメージして頂きました。闇夜を見渡す月と、それに儚く問いかける野花のような少女、オープニングはそんなイメージでした。
ここであえて、その理由については述べませんが、とにかくそういう違いがあったということです。
この「悪魔の涙」のインスピレーションはルーシー・モード・モンゴメリ著の「赤毛のアンシリーズ」から得たものです。当時22歳だった小生は、この作品に触れ、子供への真の愛情に血のつながりは大事なのか、真の愛情は血のつながりとは違ったところにあるのではないか、また、親がいないということ環境が子供をどれだけ不幸にしているか、ということについて考えるようになり、約4年後機会を得て「悪魔の涙」という一つのストーリーとしてその問いを形にしました。
レ・ミゼラブルと重ねた方も多くいらっしゃったかと思いますが、小生に「魂の救済」「魂の浄化」といった部分を主題に掲げた意図はなくその結末というのは、ストーリーの必然性に沿ったもので、あくまで主題は「愛情そのもの」であったことをここで強調させていただきます。
上演時間について。
初演の台本から各所で加筆修正をし1時間50分で終える予定でしたが 添削が間 に合わず、むしろ大幅に伸びて、最終的に休憩を入れて2時間20分ほどとなってしまいました。 宣伝の段階で上演時間を2時間と公言してしまっていただけに、今回ほど時間の短縮という課題に対して神経をすり減らしたことはありませんでした。 お時間を取らせてしまったお客様、そして多くの苦労を強いた俳優たちにお詫びします。
最後に。
今回カラヤン、リヒター合わせて全8ステージを行わせていただき、ほぼ全ての回で満席、 増席となり、フォトスタジオという多くの制約が課せられた環境で演出面、演技面、運営面全てにおいてそのポテンシャルを最大限発揮した公演になったかと思います。
今後、しばらくの間再演はないでしょう。しかし、アクト、また小生自身の出発点である 本作はどこかの節目でさらに良いものが作れるという自信が生まれた時、再び目を覚ますことになるのではないでしょうか。
改めて、この戯曲を形にするにあたって、お力添えをいただいた、お客様、スタッフ、俳優たち、本当にありがとうございました。
次回はキャスト一人ひとりの今回の公演の歩みなどについて振り返っていきたいと思います。
2019年5月6日 安城龍樹
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