第六回公演 舞台ラヴィータ 公演振り返り


この記事は、昨年11月26日-11月30日に舞台の上演を行い、2021年1月20日まで映像公開を行った作品『La Vita é Bella ── とある優等生と壊れた世界』の振り返り記事です。
作品をご覧くださった皆様、改めまして、誠にありがとうございました。
この文章は映像公開終了後の1月末に書かれたものです。
諸事情により公開が大変遅くなってしまいましたが、お読みいただけますと幸いです。



作・くろねこ演出 安城龍樹


先日上記公演の映像配信が終了しました。


昨年11月の舞台公演と合わせて当公演の日程は完全に終了したことになります。

思えば、制作が始まったのが2019年の9月。去年4月の延期を挟んで約一年半この作品のことを意識しながら日々を送ったことになります。

長大な文量の脚本、3時間近い上演時間、弾き語りや身体表現など新しい演出への取組み、ダブルキャストとダブル演出という試み、延期と改めてのキャスティング、アクトメンバー以外のスタッフの起用、あらゆる感染症対策とあらゆる不安、映像の収録と編集・・・

費やした精神と体力は5日間の公演のためのものにしては途方もないものだったと思います。


一年半の間に沢山のひとと関わり、あるひと達とは別れ、ある時はひととぶつかり合い、多くのひとと共に成長し、苦難を味わいながらなんとか乗り越えた。今振り返ると、そういう記憶や感情が蘇ります。

ある意味でひとつの達成感はありました。


とにかく、振り返ってみたいと思います。



――稽古について

作と演出が同一人物ということもあり、基本的には台本に書いてある文章を視覚化あるいは可聴化した形になりました。








その中でも、俳優個々の役の解釈や演じ方など俳優に任せるべき部分で、「書いた時のイメージに引きずられることなく、いかに俳優の感性を信頼しつつ、またそれを伸ばしていくか」、という仕事にとてもエネルギーを注ぎました。

もちろん方法の一つとして作・演出として自分のイメージの細部まで俳優に伝えてそれを表現してもらう、という方法もあります。




が、あえてその方法を選びませんでした。

今回初舞台の俳優も多くいました。右も左も分からないような状態で、「任せれた」俳優はさぞ苦しんだことでしょう。




今、当時の稽古を振り返っても今回のやり方がどの程度妥当だったのかの判断はつきません。








それでも、「あくまで役を演じるのは俳優自身で、演出家の操り人形ではない。」増して、他者のために自分自身の身体をコントロールすることに慣れ切った日本人が、芝居の始めたてから言いなりになることを覚えたら、演じることの本当の楽しさや、その人が持つ想像力をいよいよ完全に奪ってしまう。それはその人の俳優としての将来を奪うにも等しいことです。

そんなことをしてしまうくらいなら、多少至らぬところは将来のための貯金くらいの気持ちで貯めておこう。そう決めていました。














――台本について




主人公の男子高校生、澄田聡介は1991年生まれです。1991年といえば、一般的にバブルが崩壊し、景気減退期が始まったと言われる年です。政治家や官僚や財界人や会社経営者の不正が、まるでこれまで見過ごしてきた膿を針で突いたように溢れ出て、銀行が潰れ、会社や店が倒産し、仕事を失ったひとびとが露頭に迷い、学生は仕事に溢れた。先人たちが薄い霧の中でがむしゃらに追いかけてきた「夢」が消えた世界。そんな「失われた20年」の始まりと同じ年に生を受けた一人の少年は、何を見て、何を感じ、何を考えて生きたのでしょう。








確かなことは、自分たちが生きている、今、は過去のあらゆる出来事と繋がって
いるということだと思います。




では、今、はどうなんでしょうか。素晴らしい極上の世界? それともどうしようもないくらいひどい世界? 




でも、世の中なんてものはたぶんいつだってある意味極上で、ある意味どうしようもない、しょーもない不正や悪事を働く輩なんてきっと1000年前も1000年後もいる。




では、自分は? 自分の身の回りは?

コンビニは24時間365日いつでもどこでもピカピカしていて、右も左も前も後ろも同じ格好で同じセリフで接客をしてくれる店員さんがいて、
SNSのおかげでいつでもどこでも誰とでも、最高の奴とも最低のクズとも知り合いになれて、




満員電車の中でも五感を目と指に集中させて不快感を減少できるスマートフォンがあって、




AIがレコメンドをしてくれるから自分で探す面倒もしなくてよくて、




置き配は知らない間に欲しいものを届けてくれるし、




男女の格差も段々解消されてきてるっぽくて、




とりあえず平和で、戦争に行かされたり、爆弾が降ってきて死ぬこともなくて、




世襲のバカな国家元首に騙されたり、共産主義やら何かを強制されたり、悪徳資本家に奴隷の如く搾取されたりすることもなくて、




子供さえ作らなければたいていは、お腹を満たす以外のあらゆる欲求に悩むことができて、
人々は助け合って生きているし、
人々は繋がりを大切にして生きているし、




この世にありもしない「夢」を追いかける必要もない。






そんなことを考えたくなるような台本だったと思います。




















――音楽について

今回も音楽にとてもこだわりました。今回、イタリアを意識したストーリーになっているものあって多くの場面でイタリア音楽やイタリアに関係する音楽を挿入曲として使用しました。

なかでもロッシーニの「軽騎兵行進曲」は開幕と同時に約三分間全て流し切りました。
ただでさえ上演時間が途方もないのだから一番に削るべき部分と言われて然りなのですが、こればかりは外せませんでした。

上の曲はオペラ「ウイリアム・テル」の序曲の一部として有名です。
観客はこれからオペラが始まろうというその前に序曲を聴いて、劇場の空気に意識を集中させながら「これからどんなお芝居が始まるのか」と心を躍らせたはずです。

オペラはもともと暇でしょうがない貴族やブルジョアたちのための娯楽だったそうですが、そんな人たちでさえ芝居の前に20分も序曲を聴くくらいなのだから、

「電車に乗って、前後の予定を気にしながら忙しい合間を縫ってなんとか劇場に足を運ぶ我々が、いきなり幕が上がって俳優が出てくるような現代の芝居に、果たしてどのくらい没頭できるのか?」

と考えたのです。





それに加えて、昨今「作業用BGMなんて言われたり、音楽の途中に平気でCMを入れちゃうような人が音楽を配信しちゃうくらい音楽そのものをゆっくり聴く機会が減った我々に強制的に音楽だけを聴いて頂く機会を作ろう!」

と考えたものそうです。

また小さなこだわりですが、オペラのウイリアム・テルが四幕構成になっていて、またエンディングのレスピーギの「ローマの松」も四部構成になっていることから台本も四部構成にして、またエンディングはローマの松の第四部「アッピア街道の松」で締めくくることで、ちょっと先人の名作にあやかろうと言う狙いもありました。










今回使用した主な楽曲のリストです。(挿入順、大変恐れながら一部のフリー音源は割愛)

・オペラ「ウイリアム・テル序曲」より「軽騎兵行進曲」、「嵐」
作曲:ジョアキーノ・ロッシーニ

・「孤独なライオン」
作曲:水野郁子

・「ムゼッタのワルツ」
ジャコモ・プッチーニ

・「永遠の光」
作曲:リゲティ・ジェルジュ





「二つのヴァイオリンのための協奏曲」
作曲:アントニオ・ヴィヴァルディ




・「オー・ソレ・ミオ」
作曲:ダリダ




・「剣士の入場」
作曲:フチーク




・「ニューシネマパラダイス」
作曲:エンニオ・モリコーネ

・「アバンチュール」
作曲:リゲティ ・ジョルジュ




・「トワイライトゾーン」
作曲:2UN LIMITED





・「Potential」
作曲:ISAo





・「貞操のバラ」
作曲:TOGA




・「シチリアーナ」
作曲:オットリーノ・レスピーギ




・「ローマの松」第二部「カタコンバ付近の松」
作曲:オットリーノ・レスピーギ




・オペラ「カヴァレリアルスティカーナ」の前奏曲
作曲:ピエトロ・マスカーニ




・「ローマの松」第四部「アッピア街道の松」
作曲:オットリーノ・レスピーギ







――演出について







今回、弾き語りと身体表現がありました。

演劇という枠の中で、さらに現状の制作能力の中でできる最大限の表現を追求した形だったと思います。










――「映像配信」という試みについて




今回、それぞれの事情で劇場まで足を運べない方々のためにゲネプロを撮影し、編集して配信しました。
高性能のカメラを計4台使用し、これまでアクトなりに積み重ねてきた映像制作のノウハウを活かしつつ、満を辞しての配信と意気込んでいました。
舞台映像の配信という試み自体が初めてで、制作業務で戸惑う部分も多々ありましたが、まず今回なんとか形になってほっとしている状況です。
今後より、より!よいものにできるよう努めます。










――特別の感謝を捧げたい方々




水野郁子氏 劇中歌「孤独なライオン」の作曲家として。今回の作品の要とも言える劇中歌。個人的にこれ以上のものはないと思える曲だったと思います。




渡辺京花氏 発声と弾き語りの指導役として。彼女の的確でかつ熱心な指導なしに今回の弾き語りはなかったと思います。




深瀬みき氏 今回欠かせなかった身体表現の振付師として。




鹿島樹氏 照明家として。劇場としての設備を備えていないフォトスタジオに劇場に限りなく近い照明装置を文字通り一から作り上げました。
また、未熟な我々に照明家の枠を超えて多くのご指導を賜りました。

上野晴行 台本の校正役及び予約システムの製作者として。

野中辰哉氏 名古屋弁の方言指導役として。






また、当日制作として欠かせない役割を担って頂いた、税所千珠、まねごさんにも格別の感謝を送ります。







――なぜ今日まで振り返りが書けなかったかについて

今回、注いだ情熱に対して、もっといいものができるはずという気持ちがありました。その理由は本当に様々だったと思います。もし、「コロナ禍でなかったら」「お金があったら」「時間があったら」

今はもう新しいものを作ろうとする情熱すら湧かないくらい燃え尽きています。

好きで選んだはずのこの仕事ですから、ちょっとやそこらで燃え尽きるなんてことはないし、なったところでどうにもならないはずなのです。




この心の傷はいつ癒えるのか。

今はわかりません。


ただ、この世界で生きていくもしくは生きてこうとする限りは現実と戦い、そして現実と折り合いをつけていかなければならない。

そうして、いつかまた皆様の前に何かしらの作品を披露できるその日まで。





2021年1月28日 安城 龍樹







ライオン演出 大関愛










まずはじめに、第六回公演に関わってくださったすべての方々に感謝をいたします。




厳しい状況の中でも尽力してくださった俳優やスタッフの皆様、そして会場/映像でご観劇くださった皆様、誠にありがとうございました。




公演を行えることが当たり前ではない今だからこそ、作ったものを見ていただける喜びを身に染みて感じる本番期間でした。










これまではプロジェクトアクト東京の公演に俳優として参加していましたが、今回初めて演出として参加しました。




新しい視点で稽古、そして本番に臨み、改めて俳優やスタッフの仕事の尊さを実感しました。 




5回のうちのある公演の最中、「今ここでやっていることは何と凄いことなんだ...」という思いがじわじわと込み上げてきたのを覚えています。




ひとりも集中を切らさずシーンを重ねて、どんどん作品が重みを増す。そんな体感がありました。




座組みの全員それぞれに支えられた舞台だったと思います。











初めての演出を終えて、自分のことを振り返るとどうしても大反省会になってしまいます。こうすれば良かった、ああいうことが足りなかったかもしれない、が尽きません。




でもそれはこの先もっと良いものを作りたいという思いから生まれる思考であって、今回の舞台は今のベストでした。




そして、楽しんでくださった方々が多くいたこと、たくさんの感想をいただけたこと、とても嬉しかったです。




これから、どんなに経験を重ねても100%満足することは無いのかもしれませんが、もっともっと演出をやっていきたいと思っています。










演出について




脚本の安城が演出を担当したくろねこ組に対して、ライオン組はある意味で邪道のつもりで作りました。




くろねこ組との違いは多々ありますが、ここでは最大の違いと言える「新聞のくだり」 について振り返りたいと思います。




舞台を見ていない方には、何のこっちゃ分からない箇所が多々あると思います。




気になった方は、よろしければぜひ台本をご購入ください。(宣伝だーーーーーーッ!!!)











「新聞のくだり」について




『La Vita ~』の台本には、セリフやト書きの他に、舞台上で直接表現されることが想定されていない膨大な量のテキストが存在します。




「新聞のくだり」と呼んでいる箇所もそのようなテキストで、序盤、中盤と終盤にそれぞれ新聞の社会欄の一記事、新聞の一面見出し記事と、記事になった事件の被告と思われる人物の最終意見陳述が脈絡なく書かれています。







本来ならば台本を読まないと分からない部分ですが、演出を考え始めた時、これら「新聞のくだり」は舞台に乗せようと決めました。




どうしてそう決めたかを説明するために、少し話が逸れます。







今作は題名が『La Vita é Bella』(イタリア語で、人生は美しい)で、劇中の重要なシーンにも 「人生は美しい、自分がそう信じる限り」という台詞があります。




でも、台本を読んで、それを「美しい人生=素晴らしい」というふうに響かせてはいけないと思いました。







舞台上に立つ人間は、否応なしにとても美しく見えることがあります。




私はそうやって、瞬間を懸命に生きる人間の美しさに心を奪われて演劇を続けているところがある。




ただただ美しい物語から力をもらうこともある。




けれど、今作を観る人には「こちら(現実)側とあちら(美しい舞台の世界)側」のように感じて欲しくないと思いました。








『La Vita-』は下手したらただ美しい物語で終わってしまうと思ったからこそ、本当に作品が伝えたいことを伝えるためには、私たちが生きるこの世界と同じだけの重み、切実さで語る必要があると心に留めていました。







その「本当に作品が伝えたいこと」として、大きなテーマの一つに「選択」があると思っています。




自分が美しいと思う人生を、自分自身で選んで生きる。
それをただの夢物語にしないために、「新聞のくだり」はとても重要でした。








作品の中で主人公・聡介をはじめとする登場人物たちは、その半生を通して、自分自身で道を選ぶこと、自分の心と向き合うことの大切さをを教えてくれるように感じます。







反対に「新聞」のシーンは、選ぶことのできない、言葉にするにはあまりにも重く複雑に絡まった現実の象徴でした。







例えば、誰かを殺すことは殺した人の選択であっても、殺された人はそうされることを選んだ訳ではありません。




あるいは、その殺された人は、これまでしてきた無数の選択の積み重ねによって、結果的に殺されることになったのでしょうか。




選択したことは、その先に何が起ころうがすべて選んだその人の責任でしょうか。(ここまで書いて「不要不急の芸術活動、選んでやってるんだから」という言葉が思い出される)







自分の意思だけではどうにもならないことがあることは、変えようの無い事実です。




さらに今、新型コロナウイルス蔓延によって、自分の選択云々よりも大きな何かに日々が左右されていることを実感しています。







自分の意思で道を選んで幸せになりたい。皆がもっと心の赴くままの人生を選べたら。




けれども、そう上手くはできないことも嫌というほど分かっている。理不尽も、途方もない厚さの壁も山ほど存在する。だから、自分の信じた道を行け、なんて簡単には言えない。




そんな中で、それぞれがそれぞれの「美しい人生」をどう定義するのか。何を選ぶのか、選ばな
いのか。








選択はあくまで現実のものであり、だからこそ誰でも選ぶことができるのだと、「新聞のくだり」を加えた作品全体で語りたいと思ったのでした。







(どうか、もしまだ選べるのなら、何でもいいから自分で決めろ。社会にだけは殺されるな。 個人的にはそう思っています。)










「新聞のくだり」を入れた理由は他にもありますが、あとは純粋に舞台表現として面白いと思ったのが大きいです。




私はああいうの大好きです。




現実現実と言いましたが実際のシーンはかなり現実離れした有様になっており、特に派手だった二幕の頭が好きだと言ってくださる方が多くいました。とても嬉しかったです。







今回気負い過ぎずに考えられたのは、脚本家が演出をする、ある意味正統派のくろねこ組があったからです。




これは初めての演出としてとてもいい経験だったと思います。 挑戦する機会をくださり、ありがとうございました。







最後に。




安城も書いていますが、様々な要因があり今回圧倒的に人が足りなかった。そのせいで、個々人に大きい負担がかかってしまった場面が多々ありました。




そのような状況で力を貸してくださった 座組みの皆さんには頭が上がりません。




次に公演をする際は絶対にこの大反省を生かし、いらんストレスがフリーな公演をすると固く心に誓っています。




まだまだ先が見えない状況ですが、また公演をするとなったら、 どなたか、ぜひ、よろしければ、私たちと一緒にお芝居を作ってください。または、ぜひ、観にいらしてください。







その時まで、できるだけ健やかに生きられることを願って




大関愛