舞台「いのち短し、恋せよ男女」 振り返り
2021年10月16日、舞台「いのち短し、恋せよ男女」の上演日程を終えました。
今回は、安城の個人的な視点で振り返ってみたいと思います。
ーー「プロデュース公演」という企画について
今年の5月に企画と制作が始まり、6月にはオーディションの書類審査、7・8月の演技審査、9月の稽古、そして、10月の舞台公演及び映像配信の収録・公開ーーというスケジュールでしたので、今振り返ると、約半年間本当に毎日この公演のことだけを考えて日々を送っていたんだな、と思います。
プロジェクトアクト東京はこれまで六回の本公演を行ってきましたが、今回はあえてプロデュース公演と銘打ちました。
ただ実は、やっていること自体は、本公演と変わりがないのです。
では、なぜあえて見方によっては本気度が低く見られるような名称にしたのかというと、理由は主に二つあります。
ひとつは、スタジオのキャパです。今回は、席数が20席という比較的狭い場所でした。
ひとつは、スタジオのキャパです。今回は、席数が20席という比較的狭い場所でした。
もうひとつは、脚本のテイストです。
これまで、比較的シリアスな脚本を売りにやってきましたが、今回は気軽に観られるような世界観を目指しました。
ーーこれまでと少し違ったテイストの作風について
今回、これまでと少し違ったテイストの作風を目指したのにはいくつか理由があります。
コロナ禍という状況の中で、「演劇をやる意味」を考えたとき、「演劇にだけあって、演劇以外にないもの」は何かを考えました。
色々あるとは思うのですが、何より自分にとって一番は「人間の人間としての魅力」を魅せることでした。
それは、もちろん板の上に立つ俳優を魅せたいという意味になるわけですが、俳優以前に、もっと単純に人間を観て欲しいと思ったし、魅せたいと思ったのです。
なかなか人間を見ることのできる機会がない今だからこそ、そう思ったのです。
もう一つ、作品をつくるにあたって、観客にどのように観ていただきたいか、ということを考えたのですが、今回は情緒的に描き、感動や擬似体験を求めることをしませんでした。
そういう部分よりもより多角的により客観的により冷静に観て頂きたい、と思ったのです。
今回はこれまでと比べ、おそらく、より現代的で、より現実的で、観る人によってはあまりに刺さり過ぎる脚本だと思いました。
見せ方次第で、より感動的な作品にもなりうるところ、それををあえて犠牲にして求めたものは、異化効果的表現でした。
そういう部分よりもより多角的により客観的により冷静に観て頂きたい、と思ったのです。
今回はこれまでと比べ、おそらく、より現代的で、より現実的で、観る人によってはあまりに刺さり過ぎる脚本だと思いました。
見せ方次第で、より感動的な作品にもなりうるところ、それををあえて犠牲にして求めたものは、異化効果的表現でした。
異化効化ではなく、異化効果的でありたいと思ったのには理由があります。
今を映しているからこそ、感情移入や感動で終わって欲しくない。目の前の異化された人間をみて、各々が自分自身を見つめ直す機会にできたら、そういう気持ちでつくりました。
この場所で詳しい説明は割愛しますが、とにかく、それによって俳優にかなり難しい表現を強いてしまいました。
今の時点でこのやり方が正しかったか否か、判断ができていません。ただ、どのようなやり方にしても観客のことを第一に考えて作品を作る姿勢は今後も貫いていこうと思っています。
今の時点でこのやり方が正しかったか否か、判断ができていません。ただ、どのようなやり方にしても観客のことを第一に考えて作品を作る姿勢は今後も貫いていこうと思っています。
ーー演出について
「地獄とは他者のことだ」
サルトルの「出口なし」という戯曲からの引用で、今作の台本の冒頭に書かれています。サルトルは、自分に対する他者からの評価を「他人からの”まなざし”によって自分の世界が盗まれる」と言って問題化しました。
人間が生きていく以上、この他者からのまなざしから逃れることはできない。今の世の中でそのまなざしとどう向き合っていくべきか。
サルトルの「出口なし」という戯曲からの引用で、今作の台本の冒頭に書かれています。サルトルは、自分に対する他者からの評価を「他人からの”まなざし”によって自分の世界が盗まれる」と言って問題化しました。
人間が生きていく以上、この他者からのまなざしから逃れることはできない。今の世の中でそのまなざしとどう向き合っていくべきか。
※伊吹武彦訳の「出口なし」では「地獄とは他人のことだ」と訳されていますが、他人よりも他者の方が現代の語感として適当だと独自に解釈をして、あえて「他者」という言葉を充てました。ご注意ください。
1Fの背景に描かれた”まなざし”は、常に俳優と観客を眺めていました。
SNSを始め、あらゆるまなざしに晒されて日々を生きている今だからこそ、改めて問い直したい問題だと思っています。
今回、A・Bのキャストで演出を変えるということはしていません。俳優個々の脚本や演出に対するアプローチの違いが表現に出ているという現象は当然ありましたが、あくまで目指す方向は同じものでした。
例えば、アンズーワタル、シオリーカナタ、パパーエミ、エミ・アンズーアクタヤマ・ワタルの絡みについては、お互いがお互いを見ないという演出をしています。
ただし、完璧に見ないのではなく、「見ているようで見ていない」という、なかなか難儀なことを俳優に求めました。
ここでひとつ問いたいことがあります。稽古では、演出として俳優にいくつかディレクションをさせていただいたのですが、”ディレクション”とは一体なんなのでしょうか。
演出という仕事を始めて、まだ手の指が余るほどしか場数を踏んでいない安城にとって、未だに答えが出ない問題です。今回は以前にも増して、ディレクションに専念し、演技は俳優の仕事と割り切った演出に専念したつもりです。
このやり方に戸惑った俳優もいましたし、特に経験の浅い俳優をある意味において苦しめてしまったかもしれません。
このやり方に戸惑った俳優もいましたし、特に経験の浅い俳優をある意味において苦しめてしまったかもしれません。
多くの人が演出論を考え、それぞれ俳優がそれに賛同したり、批判したりしているでしょう。おそらくそれなりに議論され尽くされた問題でもあるでしょう。ただし、こればかりは、もちろん勉強は必要なのは前提としても、誰かの受け売りであっては絶対にならないと心から思っています。身ら徹底的に突き詰める問題だと思っています。なぜなら、演出はときに俳優の自由意思を侵し、苦痛を与える危険な仕事だからです。
俳優のマイケル・チェーホフは「演技は楽しい芸術であって、強いられた労働であってはならない」と言いました。これはあくまで個人的な考えであると前置きしますが、確かに演出は作品全体に責任を負うという重要な役割を担っています。でも、そういう立場であるというだけで、一方的に”正解”を押しつけ、一方的に俳優の表現を否定し、俳優の仕事が、「よりよい表現を求めること」ではなく、「より演出の正解を求める」だけの仕事になり、結果、”芸術”であるはずの演劇が”労働”になってしまっていることが実際多々あると思っています。
正直なところ、まだまだ未熟な演出家と俳優によってつくられる今回のような現場で、どこまでが演出の仕事でどこまでが俳優の仕事なのか、明確に線引きすることはできないのではないかと思っています。
最も重要なのは、演出と俳優の信頼感関係なのではないかと思っています。その信頼関係は、「演出>俳優」というような上下関係ではなく、「演出=俳優」のようなあくまで一個の芸術家同士、対等な関係であるべきと考えています。
今回、例えば、「見ているようで見ていない」という表現を追求するときに、その表現の方法は無限にあります。無限だからこそ、その方向を演出が定めてもいいし、専ら俳優に任せてもいいし、俳優が表現したものに対して演出が採否を決めたり、助言をしても良いと思っています。
いずれにしても、最後に自らの意思に従って演技をするのは俳優であり、俳優の一個人としての主体性を奪わないことが重要だと考えています。ここで問題になるのは、どこまで主体性を尊重するべきか、ということです。演出がディレクションをして、俳優が演技をする。その結果、作品のクオリティに良くない影響を与えると演出が判断したなら、演技の変更を求めなければならない。その時は、その理由を合理的に説明するなどして俳優に納得してもらう義務が生じるのは当然のこととして、一体どこまでその”クオリティ”を求めることが許されるのか。どこまでが”演出”でどこまでが”強要”なのか。
この先も問い続けてきたい問題です。
ーー脚本について
「実存は本質の先にある」
本質を持たない人間は自分自身で本質をつくることができる。あるいは、確かにそうかもしれ無い。
でも、例えば二週間食べ物を口にできなかった菜食主義者が目の前に出された肉の味に不快感を得るのなら、本来持っている本質から外れ過ぎた実存は苦しみの源にもなりうる。
もしそれがセックスだったら、あるいは、その苦しみはより大きいものになるかもしれない。
本質と実存の対立と止揚。これはたぶん永遠の課題なんだろうと思います。
でも、例えば二週間食べ物を口にできなかった菜食主義者が目の前に出された肉の味に不快感を得るのなら、本来持っている本質から外れ過ぎた実存は苦しみの源にもなりうる。
もしそれがセックスだったら、あるいは、その苦しみはより大きいものになるかもしれない。
本質と実存の対立と止揚。これはたぶん永遠の課題なんだろうと思います。
”自由奔放な”サリという人物は、決して自由ではない。他者からのまなざしや人間の本質と向き合いながら、自由に生きようともがいている。
サリの生き方を通して、今の生き方に悩む誰かにとって、少しでも救いになったのなら幸いです。
「いのち短し、恋せよ男女」と書かれたタイトルから始まる今回の脚本。
どうも、今の社会というのは日を増す毎に複雑になっているようで、人それぞれが、それぞれ違った人間であると認めようという素晴らしい価値観が広まっているのに、今度は広がり過ぎた個性を個人対個人レベルの付き合いでどう折り合いを付けていくか、なんていう苦労もあったりするようです。
だからこそ、この苦労はなんのためにあるのか、
この苦労をして自分が本当に得たいものは一体なんなのか、
一度立ち止まって、そういうことに考えを巡らせられたらな、と思います。
人間のいのちは短い。恋せよ男女、黒髪の色褪せぬ間に。
例え、身体に毛が残っているだけで犯罪者のように扱われようと、
ヤリマンだと言われようと、
恋と理性の板挟みに悩もうと、
王子様を演じるピエロになろうと、
セクシャリティが商品化されモノと同じように消費されようと、
行き過ぎた理想が市場で再生産され続けようと、
セックス以外に自分を肯定できる手段がなかろうと、
叶わぬ恋だろうと、
生きていること辛くなるほど苦しい失恋が待っていようと、
男女が一緒になって子供を育てるという生物として当たり前の営みさえ困難なのだとしても、
恋をすることをとめてはいけない。
シオリは、生きていることの苦しみから逃れるために死を選ぶ。が、死に切れずに一生消え無いかもしれない傷を顔に残しながらも生き抜くことを決める。
決して自傷や自殺を肯定するわけではないにしても、一度は”死んだ”シオリだからこそ、目の前のしがらみから解き放たれて、見える世界がきっとある。
それは、エミも同じ。ワタルもきっとそう。アンズはそんな二人を見て、最後にずっと探して求めていた答えを得る。
死は生の一部。
死を本気で見つめ直すことで、生を、今をもっと輝かせることがきっとできる。
そういうことを考えたくなる脚本だったと思います。
ーー最後に
建て込みから、千秋楽までの間にたくさんの困難がありました。緊急事態宣言の延長、地震、台風、JRの運休etc…
それでもみんなに支えられながら、無事に乗り切ることができました。
15日間で映像収録を含めて34ステージという今回の試みについて、どう総括するべきか、今の時点ではまだ整理がついていません。
今、言えるのは、これだけの期間、想像の世界に浸れたことが少なくとも自分にとって幸福なことだったということです。
また、単純に言い切ることができないのですが、これだけの数を重ねることで、俳優も演出もたくさんの試みをすることができたこと。そういう意味でよりやり切れたこと。
そういう経験ができたことにとても意義があるのではないかと思っています。
この無茶な企画に最後まで付き合ってくれた俳優、スタッフたちには感謝をしてもしれません。
色々と至らぬところがあったとはいえど、これだけの短期間で32ステージ+映像配信という企画を大きな障害もなく終えられたのは、ひとえに人の力であったな、と思います。
ーー特別の感謝を捧げたい方々
大関愛 映像収録、編集、素晴らしいフライヤーの制作、、感染症対策、その他日の目を見ることはなくても今回の公演に欠かせなかったあらゆる仕事に対して
皆藤めぐみ氏 限られた照明機材で最大限の照明演出をしくれたこと、全ステージの照明オペレーションに対して
Hayu Planet氏 今回の作品に見事にハマった主題歌および劇中歌の作者として
酒井肇氏 ほぼ全公演通して当日制作として舞台裏の支え役を担っていただいたことに対して
上野晴行 予約・支払専用サイトの制作者として
税所千珠 衣装・小道具の担当および今回の公演に欠かせなかった背景の”まなざし”の制作者として
今回一緒に舞台を作って下さった全てのお客様、そして俳優、裏方たちにも改めて深くお礼申し上げます。
出演者
A班
サリ 木村桃子
アンズ 渡辺京花
エミ 税所千珠
シオリ 山下みなみ
ワタル 廣畑慎之介
カナタ 蒼樹はる
カドサカ 安江晶野
ケンタロウ 奥田隆一
ルイ子 赤峰マリア
B班
サリ 安藤紫緒
アンズ 山﨑皆
エミ ひろえるか
シオリ 四宮菜々子
ワタル 加藤健
カナタ 華空祥
カドサカ 唐木一馬
ケンタロウ 近江秀一
ルイ子 栞可
照明 皆藤めぐみ
音響 安城龍樹
宣伝美術 / 制作 大関愛
衣装 / 舞台美術 税所千珠
フライヤー撮影 平賀正明
システム 上野晴行
WEB / 動画撮影・編集 UNI Production
協力 オフィスしゃぼん玉、トライクルーエンターテイメント、Biter、Fresh Stars Entertainment、行政書士横山祥二法務事務所
主な使用楽曲
・Hayu Planet 「Stay tune」
・モーツァルト 「ピアノソナタ11番」
・TWICE 「BDZ」
・ヘンリー・マンシーニ 「Moon River」
作・演出 安城龍樹
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