「悪魔の涙」2022公演振り返り①
2022年12月12日、プロジェクトアクト東京第七回公演「悪魔の涙」2022年度版の幕が降りました。
この公演に携わってくれた、俳優、製作陣、クラウドファンディング支援者の方々、協力者の方々、そしてスタジオに足を運んで下さったお客様方へ感謝を申し上げます。
今年の5月から企画と制作を初めて、約7ヶ月かけて制作をした舞台公演の上演日程が終わりました。
まだ、本稿の執筆時点で、この公演の制作業務が残っているので、製作者の感覚として終わったという実感がないのは事実ですが、とにかく、一旦キリをつけて、今回の公演について、振り返ってみようと思います。
――稽古について
9月1日に顔合わせを行い、9月中は週一回、先行稽古という自由参加形式の稽古を行いました。12月の本番までの間、長い方では三ヶ月以上の間同じ空気を吸ってきたことになります。
10月11日から12日にかけて、恒例の合宿稽古を行いました。
この合宿の経験が劇中のキャンプのシーン(秀一と勇太の釣りやBBQなど)に活かされています。
合宿の目的はいくつかあったのですが、個人的に肝だったのは、野生に近い環境の中で「身体の開放」を実践することでした。
普段、現代人は人工物に囲まれ、ときに、自由の効かない窮屈な場所でときに苦痛に耐えることを求められます。
普段、現代人は人工物に囲まれ、ときに、自由の効かない窮屈な場所でときに苦痛に耐えることを求められます。
便利さや社会秩序と引き換えに、生まれ持った個性を発揮できずに一生を終える人が事実ほとんどでしょう。
ヒトの遺伝子は、サバンナにいた頃からほとんど変わっていないと言われています。獲物を追い回したり、木によじ登ったり、大声で叫んで仲間を呼んだり、猛獣を追い払ったりしていた頃のヒトに比べれば、我々現代人が本来備えた能力をいかに眠らせてしまっているか、が分かると思います。
ヒトの遺伝子は、サバンナにいた頃からほとんど変わっていないと言われています。獲物を追い回したり、木によじ登ったり、大声で叫んで仲間を呼んだり、猛獣を追い払ったりしていた頃のヒトに比べれば、我々現代人が本来備えた能力をいかに眠らせてしまっているか、が分かると思います。
私の演出の基本原理は変わらず、「人間の魅力を伝えること」です。
ほとんどの人がこの世界に生れ出たそのときにオギャーっと叫んだあのときの衝動を取り戻すこと。
ほとんどの人がこの世界に生れ出たそのときにオギャーっと叫んだあのときの衝動を取り戻すこと。
今回の脚本を形にしてお客様へ届けるためには、それが必要でした。
そのために、山道を歩き、遠く離れた場所から大声でセリフをかけあったり、マサカリで薪を割ったり、みんなで火を囲ってご飯を食べたり、語り合ったり・・・。
合宿二日目の朝、炊事場に野生の猿のものと思われる糞が落ちていました。夜、火を囲ってマシュマロを焼く我々を、山の猿たちは、一体どんな気持ちで眺めていたのでしょうか・・・。
合宿から帰ってきてから、稽古場が見違えて明るくなったのを覚えています。
特に主要キャストの多くが合宿に参加したリヒター組は、本番二ヶ月前という時期に、一体感が増していた。
特に主要キャストの多くが合宿に参加したリヒター組は、本番二ヶ月前という時期に、一体感が増していた。
しかし、稽古はもどかしさの連続でした。この世情では致し方ないのですが、カラヤン組、リヒター組、それぞれ別々に稽古をする必要があり、膨大な量の演出を全て二度やらねばならず、
そのために限りある時間と体力を不必要に消費しせざるを得ませんでした。
ダブルキャストの利点である、相互の演技を参考にする相乗効果もなかなか得られませんでした。
ダブルキャストの利点である、相互の演技を参考にする相乗効果もなかなか得られませんでした。
毎回、稽古場の利用時間ギリギリまで稽古をして、大急ぎで片付けをし、稽古場を出てからフィードバックをしたりと、苦しく忙しい稽古が続きましたが、俳優たちが持ち前の明るさ、根気、そして芝居に対する熱意のおかげで、作品は徐々に完成へ向かいました。
――脚本について
2018年の初演、2019年の再演以来の上演となった本作。
「愛について」という主題に変わりがありませんが、いくつか手直しをしました。
脚本・演出を1人で行っているという性質上、どうしても紙面に乗せる文字に演出的意図が入り込んでしまうのですが、それでも私は、脚本家としての人格と演出家としての人格を可能な限り分離し、その上で脚本を一つの独立した作品と捉えた上で、本作を書き直しました。
脚本・演出を1人で行っているという性質上、どうしても紙面に乗せる文字に演出的意図が入り込んでしまうのですが、それでも私は、脚本家としての人格と演出家としての人格を可能な限り分離し、その上で脚本を一つの独立した作品と捉えた上で、本作を書き直しました。
今回書き直しをするに当たって、特に意識をしたのは、「言葉」でした。言葉というものは口にするだけでその言葉の意味を相手に伝えるだけの力があります。しかし、言葉自体は、意思を持っていなければ、行動もしない。しかも、言葉それ自体には発する側と受け取る側で誤解が生じうる。それに、言葉というものは相対的に、発信する側の力が大きく、受け取る側の能動性が減りうる。
往年の喜劇王チャールズ・チャップリンは、映画界でトーキーが主流となってからも尚、サイレントにこだわり続けたのは有名な話ですが、彼は、完全なサイレントではなく、セリフを最小限に留めることでセリフの効果をより高めました。
そのため「言葉=セリフ」を可能な限り減らし、必要に応じて「ト書き=行動」に置き換えることで、セリフとト書きそれぞれの効果をより高められるよう努めました。
――演出について
この「悪魔の涙」を執筆したのは、今から約五年前のことです。
実はあのとき、私自身、この物語が持つ力のほとんどに気が付いていませんでした。
その間、四作の執筆を挟んで、また再演を挟んで、この五年でこの物語の持つ新たな力の存在に気がつきました。
今回、演出をする上でもっとも意識したかったのは「ゆるし」でした。
今回、演出をする上でもっとも意識したかったのは「ゆるし」でした。
無償の愛とは、もし存在するとしたら一体なんなのか? いま私は、ゆるしこそ、それにもっとも近い概念なのではないかと思っています。
あらゆることが許せなくなってしまっている昨今ですが、他者を許せない人生にどれほどの幸福があるのだろう。
あらゆることが許せなくなってしまっている昨今ですが、他者を許せない人生にどれほどの幸福があるのだろう。
問題から目を背けるのではない。無関心になるのでもない。
でも、根底に許す心がなければ、愛を持てなければ、周りは本当に敵だらけになってしまう。
人は、完璧にはなれない。もし仮に、完璧な人、というものがあるとしたら、それは、他者から至らぬ部分を受け入れてもらえる人なのではないか。
そして、その「至らぬ部分」にこそ、人間のあるいは人間社会の重要な本質が隠れているのではないか。
人は、完璧にはなれない。もし仮に、完璧な人、というものがあるとしたら、それは、他者から至らぬ部分を受け入れてもらえる人なのではないか。
そして、その「至らぬ部分」にこそ、人間のあるいは人間社会の重要な本質が隠れているのではないか。
もし、本作に触れてくれた方々の中に、ほんの少しでも、無意識の中にでも、思考よりもむしろ感情的に、それに共感して頂ける方がいたとしたら深甚幸いです。
美術は、メキシコの伝統文化を背景に、「明るいお葬式」をイメージ。
メキシコの伝統的死生観に骸骨信仰というものがあります。
「どんなに富める人も、どんなに貧しい人も、どんな善人もどんな悪人も、いずれ皆骸骨になる」
メキシコの明るい音楽やビビットな配色の衣装や装飾類には、メキシコの血塗られた歴史、さらには現代もなお死と隣り合わせの生活を送っているメキシコ人の悲観が根底にあるそうです。
いずれ、誰しもに訪れる死から目をそらさずに、生きている今をまっとうしようとする姿勢、死を生の延長として捉え、死を悲観しない考え。
(税金を払っていれば、国が病気を治してくれて、国が平和な生活をまもってくれて、豊かな生活を担保してくれて、税金を払っていれば国が寿命までなんとかしてくれる)と暗に期待をしている多くの現代日本人に投げかけたいテーマでした。
こういう類の話はこの辺にして・・・。
もう一つの目的は、父(橋本秀一)と娘(橋本唯)のお葬式でした。
二人の葬儀を可能な限り明るく執り行おう。そんな思いでした。
いずれ、誰しもに訪れる死から目をそらさずに、生きている今をまっとうしようとする姿勢、死を生の延長として捉え、死を悲観しない考え。
(税金を払っていれば、国が病気を治してくれて、国が平和な生活をまもってくれて、豊かな生活を担保してくれて、税金を払っていれば国が寿命までなんとかしてくれる)と暗に期待をしている多くの現代日本人に投げかけたいテーマでした。
こういう類の話はこの辺にして・・・。
もう一つの目的は、父(橋本秀一)と娘(橋本唯)のお葬式でした。
二人の葬儀を可能な限り明るく執り行おう。そんな思いでした。
また、横11メートルという会場の広さを使い、より一人一人の孤独感が出るような演出を目指しました。
――改めて振り返って
今回、クラウドファンディングという新たな試みをメンバーの税所千珠の主導で行いました。その結果380,000円という私の想像を遥かに上回るご支援を頂きました。金額だけではなく、この結果そのものが公演を行う上で大きな力になりました。この場を借りて、支援者の方々そして、支援者と我々を結びつけてくれた俳優たちに深くお礼を申し上げます。
長い、長い道のりでした。九月は自転車を漕ぎ、大汗をかいて稽古場に向かっていたのに、いつの間にか金木犀の匂いを嗅いでいて、色づいた木々を眺め、枯葉を踏み締め、そして今はコートを羽織って白い息を吐いています。
ひとつの季節を跨いで、それまで見知らぬ他者だった人たちが一緒になって一つの公演を行えたという事実、そして、おそらくもう二度と同じ顔が集まることはないだろうという現実に、まだ実感は少ないながらも、感傷的な気持ちにならざるお負えません。
今回、両座組を合わせて中高生四人を含む平均年齢22歳前後の若い座組みで挑むことになりました。
作品の質、量とそれに対する時間、労力が相対的に不足して、大変なプロジェクトだったという印象ですが、それでも前向きなエネルギーに支えられて、最後まで走り抜けることができました。様々な面で支えてくれた俳優たちには感謝しかありません。
作品の質、量とそれに対する時間、労力が相対的に不足して、大変なプロジェクトだったという印象ですが、それでも前向きなエネルギーに支えられて、最後まで走り抜けることができました。様々な面で支えてくれた俳優たちには感謝しかありません。
この悪魔の涙という作品は、やるたびに何かしらの奇跡が起きます。
今回もたくさんの奇跡が起きました。そのうちの一つは、この作品がお客様からあれだけの拍手をいただけるだけのものにまで昇華するに至った事そのものだと思います。
その奇跡は、まったく偶然なんかではなく、この作品に携わった人間ひとりひとりの強い意志によって引き起こされたものなんだと、今はそう思います。
その奇跡は、まったく偶然なんかではなく、この作品に携わった人間ひとりひとりの強い意志によって引き起こされたものなんだと、今はそう思います。
「演出」というのは、捉え方によっては、ひとをコントロールする役割と捉えがちですが、私はそう断じてそう認識していません。
今回、ある類稀な才能を持つ役者と出会うことができました。私は彼女にそれまでの価値観を覆されるほどの影響を受けました。役者とは、「身体と感情をコントロールする仕事」と一般的に言われています。例えば理性の未発達な幼児や動物に演技ができないのは、それができないからです。
今回、ある類稀な才能を持つ役者と出会うことができました。私は彼女にそれまでの価値観を覆されるほどの影響を受けました。役者とは、「身体と感情をコントロールする仕事」と一般的に言われています。例えば理性の未発達な幼児や動物に演技ができないのは、それができないからです。
彼女はそれが得意ではない。つまり一般的な価値観に当てはめれば、演技が下手な役者と言うこともできます。
でも、例えば幼児は動物が人から愛されるのは、ひとつに正直であるからだと思うのですが、彼女はまさに正直な人間です。彼女が幼児や動物と同列だと言っているのではありません。ちゃんとした理性を持った大人です。演技に対して正直な人間という意味です。
その彼女の透き通るほど白い正直さに、「演技」の新しい可能性があると感じています。
余談ですが、12月10日、公演三日目の夜に2019年公演の出演者たちと再会する機会がありました。
あれから三年半の間にある人は結婚をし、ある人は育児に悩み、ある人は壮絶な経験を送り、ある人は目標に向かって順調に歩み続けている。
あれから三年半の間にある人は結婚をし、ある人は育児に悩み、ある人は壮絶な経験を送り、ある人は目標に向かって順調に歩み続けている。
奇跡を共に体験した仲間たちの語る言葉に、深い感慨を禁じ得ませんでした。
今回の公演が成功だったかはわかりません。あるいは失敗っだのかもしれません。
いち製作者として、たくさんの失敗をしました。この失敗に対する責任は必ず取らねばなりません。
でも、誰かが私を必要としてくれている限りは、何らかの形で演劇を続けて行くのだろうと思います。
――特別の感謝を捧げたい人たち
・大関愛氏 フライヤー制作、宣伝動画制作、ヴィジュアル写真編集、公演DVD制作、当日パンフレット制作に対して。
・清水ゆかり氏 俳優、スタッフの相談役として。
・榛名さと氏 メキシコの歴史、文化の知見提供、リヒター組悪魔の衣装制作に対して。
・橘奈穂氏 カラヤン組の演出助手として。また、今回公演を行う上で制作面の秩序を保つことができたのはひとえに氏の尽力によるものでした。
・吉井優花子氏 クラウドファンディングの多大なる協力に対して。
・一条政美氏 全公演の照明オペーションに対して。また、業務の範囲を超えて、制作を支えて頂いたことに対して。
・上野晴行 予約サイトの選定、運営など、陰で当公演を支えてくれたことに対して。
・税所千珠 衣装、小道具の制作、管理、身体表現の振り付け、クラウドファンディングサイトの運営など、自身の役と平行して行ってくれた全ての仕事に対して。
――最後に
「Waltz For Debby」
言わずと知れたビル・エヴァンスの名曲ですが、この曲は私にとって演劇の原体験を思い出させる曲の一つです。
私は京都の小さな劇団で演劇を始めました。その劇団のカーテンコールで必ず流れるのがこの曲でした。
私は京都の小さな劇団で演劇を始めました。その劇団のカーテンコールで必ず流れるのがこの曲でした。
今回、本作が初舞台、また実質初舞台という俳優もいました。あなたたちにとって、この原体験を思い出させる曲がもしあったとしたら、五年後、あるいは十年後、その曲とともにこの原体験について語ることができたら、演劇に携わる者にとってこれ以上の幸福はありません。
あなたがこの世に生を受けたこと、そして、限りある人生の時間を、私と共にしてくれた事実と、あなたのその選択に深い感謝を込めて。
2022年12月18日 安城龍樹
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