「悪魔の涙2022」振り返り②
公演振り返りの第二回は、各出演者についてお話します。
今回、諸事情で掲載するに足りる写真が圧倒的に少なく、載せられる写真に限りがありましたので、ご容赦ください。
――リヒター組
リヒター組という名前の由来は、BGMに「カール・リヒター」指揮の「レクイエム」を使用しているところからきています。
由井柾(ゆいまさき)橋本秀一役
彼の前向きな明るさと、熱意、そして行動力に何度も救われました。
由井さん演じる秀一は、時折、昭和の俳優の気配を感じるような、ある種の郷愁感を感じるような男でした。
自身の根源的な弱さを、虚勢という皮を被ることで強さに変えていた。それが、あみりとの出会いをきっかけに、自身の弱さと向き合い、徐々に真の優しさと強さを身に着けていった。
由井さん演じる秀一は、時折、昭和の俳優の気配を感じるような、ある種の郷愁感を感じるような男でした。
自身の根源的な弱さを、虚勢という皮を被ることで強さに変えていた。それが、あみりとの出会いをきっかけに、自身の弱さと向き合い、徐々に真の優しさと強さを身に着けていった。
エピローグでの「深海のような幸福に浸っている」というト書きの場面、由井さんからは、暗い深海に強い光が差しているかのようでした。この点は、後述のカラヤン組の中野さんと大きく違っているのですが、私個人は、二人の解釈、人間的魅力が表出した場面として強く印象に残っています。
はざきあまね 橋本瑛子役
たくさん悩んだことと思います。たくさん悩ませてしまったことと思います。
たくさん悩んだことと思います。たくさん悩ませてしまったことと思います。
当初、彼女と私はディスカッションをして、役の解釈や方向性について話し合いました。
しかし稽古でそれが噛み合わない。(もしかしたらこのまま終わるのではないか)という悪い予感がよぎったときもありました。
それが、ある日を境に劇的な変化が起き、劇中の瑛子に生命力が宿りました。
はざきさん演じる瑛子は、瑛子という人間が秘めた不器用さ、不器用さが生み出す愚かさ、すぐには理解されない優しさ、そういうものが見えました。
それが、ある日を境に劇的な変化が起き、劇中の瑛子に生命力が宿りました。
はざきさん演じる瑛子は、瑛子という人間が秘めた不器用さ、不器用さが生み出す愚かさ、すぐには理解されない優しさ、そういうものが見えました。
リヒター組の秀一と瑛子は、最後は、共にありのままを認め合い、受け入れ合うことができたことで、生涯を共にする伴侶になりえたのではないか、と今は思います。
井上木鼓(いのうえもこ)橋本唯(12歳当時)役
木鼓さん演じる唯は、今回表現したかった唯の持つ強さがよく見えました。
当初課題だったストレート芝居の発声、英語の発音も、なかなか唯のシーンが当たれない中でも克服し、観客に十分な衝撃を与えることができたと思います。
個人的に彼女の演じる唯の演技の中で最も印象的だったのは、(DVDの方は生憎、解像度の問題で注視しないと確認することができないのですが)秀一に「英語スピーチの全国大会、来てくれるよね?」と問いかけて、「行けない」と言われた後の落胆の様です。
あのときが木鼓さんと唯が最も近づいた瞬間だったと感じました。
松本萌々子(まつもとももこ)斉藤あみり役
一昨年、上演した第六回公演「La Vita é Bella ──とある優等生と壊れた世界」以来の出演だったももちゃん。二年前、去り際に彼女が「必ずまたオーディションを受けに来る」という言葉を残して行ったことを私は忘れていませんでした。
ももちゃんの演じるあみりは、ある意味、台本通りという感じで、見ていて思わず頷きたくなるような瞬間が多々ありました。後述のカラヤン組あみり役の原瑚音さんは、挑戦的とも言える解釈であみりを演じていたので、ももちゃんが“理想”のあみりを演じてくれることにある種の安心感を抱いていました。
例えば、勇太をえんぴつで刺したあみりが瑛子に問い詰められる場面、ももちゃんは、「衝動的に刺したことを自覚していながらも、その理由を説明できない、あるいは説明しようとしない。そして、起きた出来事の数々に対しての不快感に耐えている。」といった様子でした。このような表現は、あみりという架空の人間に現実と同じだけの重み、存在感を与えるために欠かせないものだと思っています。
ももちゃんの演じるあみりが観客にどう映っていたか、それはアンケートを読めばおおよそ分かりますし、何より観てくださった皆様の感じた通りです。
まだ、上を目指せたような気がします。それは翻って、演出という立場の私にも言えることですが。とにかく、またいつか。
桔梗叶采子(ききょうとあこ)諏訪桃子役
14歳、中学2年生、両班通してあみり、勇太、桃子の「ガキンチョ三人衆」の中ではダントツの最年少でした。
それでも、大人たちや歳上の人たちを前にしても物怖じしない、少なくともそれを表に出さない肝っ玉の強さがありました。それに、加えて屈託のなさがあり、彼女が来るだけで稽古場が前向きな空気になったのが印象的でした。
稽古の初めは、どこにでもいるような中学生のようだった彼女が、日に日に力をつけて、年上の俳優たちの中にいても十分すぎる存在感を見せるようになりました。
そんなとあこさんの演じる桃子ですが、まず桃子という役は、演じる上でどのように演じる上で幅がある役で、物語の世界観に没入するほど、「どうしてあみりが働かないといけないの」という言葉に強い感情が出るように思います。
稽古の初めは、どこにでもいるような中学生のようだった彼女が、日に日に力をつけて、年上の俳優たちの中にいても十分すぎる存在感を見せるようになりました。
そんなとあこさんの演じる桃子ですが、まず桃子という役は、演じる上でどのように演じる上で幅がある役で、物語の世界観に没入するほど、「どうしてあみりが働かないといけないの」という言葉に強い感情が出るように思います。
彼女の桃子は、柔らかさと優しさ、羽のような気品と意思の強さもあわせ持っているように見えました。また、自然体であるだけでなく、演出に適応する力もありました。
濱田創(はまだつくる)佐藤勇太役
勇太という人間の本質がもし不器用だとするのなら、創の演じる勇太は、限りなくそれに近かったと思います。
創の演じる勇太は、優しく、力強く、真っ直ぐでありながら、うまく生きられない不器用さが見えました。
最初から創の考える勇太がそうだっかというと、必ずしもそうではなかったと思います。
あみりに「今の生活楽しいか」と問いかけるくだり、最初に当たったとき、あみりを気遣う優しい勇太でした。私は、(勇太は確かに優しい。だが、それだけが勇太の本質だろうか)と密かに悩みました。
それが、稽古を重ねるにつれてその優しさを秘めた真っ直ぐな勇太に変わっていきました。
井口美帆(いぐちみほ)斉藤愛美役
愛美という人物は、物語で直接語られない役の背景を身体を使って表現する必要がある役です。彼女とはほとんどディスカッションをしなかったのですが、稽古が進むに連れて、彼女の身体から愛美の残像が増して行ったように見えたことが印象的でした。
特に、夫の良介を失い、その後の不幸の原因を全て秀一に帰結づけ、憎悪という実存的怨念にとらわれる様には、恐ろしさと同時に不思議な快感を覚えました。
直感的な演技という印象でしたが、だからこそ自然で違和感がなく、舞台上に生き物として存在する愛美を見ている気分になれました。
名倉飛陽(なぐらひよう)斉藤良介役
今回もっとも遅れての参加となった名倉さん。良介のシーン稽古にかけたれた時間は決して多くはありませんでしたが、愛美役の井口さん、秀一役の由井さんと稽古を重ねていく過程で見違えるほどに変わっていきました。
名倉さんの演じる良介は、想いの強さに溢れていたように見えました。
真っ直ぐで優しく、ひたむきな良介がいたことで、作品のドラマ性が際立った結果になったのではないかと思います。
奥田隆一(おくだりゅういち)滝沢友章役
今作において、唯一ストーリーの外側にいた人物である滝沢。そうであるがゆえ、ストーリーを壊さない程度に外側でありつづけなければならないという意味で難しい役でした。
彼が演じる滝沢は、外側でありながらしっかりストーリーにも溶け込んでいる。そんな印象でした。
おっくんは、今回板に上がっている時間は長くなかったのですが、稽古場にずっといてくれて、裏側では年下の役者の世話をしてくれていたそうです。おっくんとはかれこれ四年の付き合いになるのですが、会うたびに頼り甲斐が増している姿を見て、勝手ながら喜ばしい気持ちになります。
おっくんは、今回板に上がっている時間は長くなかったのですが、稽古場にずっといてくれて、裏側では年下の役者の世話をしてくれていたそうです。おっくんとはかれこれ四年の付き合いになるのですが、会うたびに頼り甲斐が増している姿を見て、勝手ながら喜ばしい気持ちになります。
税所千珠(さいしょちず)悪魔役
人間以外の役を演じるというのは、その俳優の想像力や発想力が問われると思います。
私は今回、悪魔という名前を持っているが既存の悪魔のイメージにとらわれない悪魔を目指しました。
オーディションの際、相手役で彼女が悪魔役をしている様子を見て、(これまでの悪魔とは全く違った悪魔になるのではないか)と感じて、悪魔役をお願いしました。
そんな彼女の演じる悪魔は、チナ・オアハケーニャのような衣装を身につけ、どちらかというと、悪魔や神様のような超越的な存在というよりは、鬼や妖怪の様な、より人間の世界に近い存在でした。人の悲しみや憎しみや欲望を一つの現象として受け入れる姿は、知る限り既出のどのキャラクターにも当てはまらない、まさに“名前のない存在”のようにも見えました。
私は今回、悪魔という名前を持っているが既存の悪魔のイメージにとらわれない悪魔を目指しました。
オーディションの際、相手役で彼女が悪魔役をしている様子を見て、(これまでの悪魔とは全く違った悪魔になるのではないか)と感じて、悪魔役をお願いしました。
そんな彼女の演じる悪魔は、チナ・オアハケーニャのような衣装を身につけ、どちらかというと、悪魔や神様のような超越的な存在というよりは、鬼や妖怪の様な、より人間の世界に近い存在でした。人の悲しみや憎しみや欲望を一つの現象として受け入れる姿は、知る限り既出のどのキャラクターにも当てはまらない、まさに“名前のない存在”のようにも見えました。
唯に「あなた本当は悪魔じゃないでしょ」と言われて大きく笑う悪魔。私はあの悪魔の笑いに理屈不要の、とてつもなく大きくて深い救いがあると感じました。まるで自分自身が救われたような気持ちになりました。ご覧になった方々のご意見もぜひお伺いしたいところです。
――悪魔について
ここで、少しだけ悪魔について考えたことを話します。
悪魔役の難しさは、悪魔という存在は超越的なものであるが、演じる人間は人間である、とう点です。
私は、それぞれ両組の悪魔役の二人には、「既存の悪魔のイメージや悪魔という言葉に縛られずに演じてほしい」とお願いしました。
そうすると必ずぶつかる問題が「この“悪魔”とは一体何者なのか」「仮に何者か定義したとして、それをどう演じるのか。どう動き、どう話すのか」と言ったことだったと思います。
そもそも形而上学的な存在は、そもそも人間には表現することができない、自分が人間である限りは、人間の想像力の範囲でしか表現することができない、という根本的限界を認めた上で挑まなければならなかったのです。
――カラヤン組
カラヤン組という名前の由来はBGMに「ヘルベルト・フォン・カラヤン」指揮の「レクイエム」を使用しているところから来ています。
中野遼太(なかのりょうた)橋本秀一役
内側に優しさや純粋さという気質を持っているが、自己欲や利己欲の泥に埋もれている。それがあみりとの生活を通して徐々に洗われて行く。“良い人”は、周囲の環境や影響といった外的要因で”悪い人“にも成り得る。それでも、自分自身を見つめ直すきっかけさえ持つことができれば、自分を悪へと引き込もうとする”悪魔“と向き合い、そしていつかは振り払うことができる。それは現実世界の現実生活ではとても容易なことではないが、少なくとも人間にはそれができる余地がある。中野さんの演じる秀一を今思い返すと、そういう気持ちになります。
この作品を客観的に見た時に、主役が加害者側である、という点で少数派に位置するものなのではないかと思います。
中野さんの秀一は、加害者としての微妙な立場、(例えば、その行為をどのくらい悪と捉えて、その行為にどのくらいの痛みがあり、どのくらい痛みを感じているのか)を唸るような絶妙さで演じていました。
エピローグの「深海のような幸福に浸っている」のくだり、中野さんは、海中に音もなく沈んでいく真鍮のようでした。このト書きに象徴されるように内面的な表現が由井さんといい意味で対比が出て、よかったと思っています。
土田有希(つちだゆき)橋本瑛子役
「人の成長」という言葉を物語で使うのに相応しいのは例えば、今回の学生たちやせいぜい二十代の若者たちだと思います。しかし、土田さんの演じる瑛子の劇中の変化には「人の成長」という言葉を当てたくなるような趣がありました。
秀一が「汚れ」なら土田さんの瑛子は「歪み」でした。その歪みがあみりとの生活を通して、また大きな障害と正面から向き合っていくことで、真っ直ぐと伸びて行き、強い覚悟と強い意思を手に入れたように見えました。
また、土田さんは、その場面、その瞬間に自分に何が必要で、実際どうすれば良いか、と言った状況判断ができ、舞台袖での準備、開演前の準備、稽古場での振る舞いや経験の浅い役者たちへの気配りを欠かさないところなど、役者の鑑であるだけでなく、人の鑑でもありました。
舩山結希(ふなやまゆき)橋本唯(12歳当時)役
まだ13歳という年齢ながら、英語の発音、セリフの音合わせ、演出の咀嚼と実演など演技に対するセンスも技能も抜群に優れていました。
そんな彼女の演じる唯は、まさに唯が持っているであろう純粋さ、強さ、そして闇、それらの全てが現れていました。
彼女のように多感で繊細なひとにとって、今のご時世、健康に日々を送ることすらも大事業なことでしょうが、またいつか、彼女が舞台上で光を浴びることのできる日がくるのを待つばかりです。
原瑚音(はらこと)斉藤あみり役
(品が良すぎるのではないか)オーディションの際、彼女に持った印象でした。あみりという役は、ある種の泥臭さや野生が必要だと思っていました。
当時、私が彼女にこの役を演じ切れるのか、あるいは過度な負担にならないか、など様々な心配をしましたが、最終的には彼女の意欲を信じました。
瑚音さんの演じるあみりは、猫のような気高さ、脆さ、そして愛らしさを持っていました。あみりに対して気高さ、という印象を抱くことがとても奇異なのですが、それは彼女がこれまでにない新しいあみりを示したということです。
先述の勇太をえんぴつで刺すくだり。彼女のあみりは、どうしてあの時、刺したのか本当に説明できない。そういうあみりでした。
人の人格は、人格が形成させる期間中の周囲の環境に大きな影響を受けるが、それでも、その人の先天的本質が大黒柱のようにその人を支えている。その柱が、原瑚音にしか演じられないあみりを支えている。そう思わせました。
瑚音さんがこの役に挑むに当たって数多の障害にぶつかったことと思います。贔屓するわけではなく、数多の障害を乗り越えてあみり役を演じ切ったことに敬意を表します。
吉井優花子(よしいゆかこ)諏訪桃子役
優花子さんの演じる桃子は、優しさと芯の強さそれに加えてしおらしさがありました。
演技に対してとても研究熱心で、他者に意見を聞きに行き、逆の組や他の人の演技を積極的に見に行き、自分の演技に吸収していた様子が今でも印象的です。
また、洞察力や感受性も高く、今後の活躍に期待したいです。
山県獅童(やまがたしどう)佐藤勇太役
彼の演じる勇太は、より現代的な勇太でした。「勇太」という人物を台本に忠実に演じようとすると、どうしてもデフォルメされた人物になりがちなのですが、彼の勇太はどこかの田舎の学校から連れて来られたような、そういう現代性があったように思います。
それが結果的には、この作品に現代感を吹き込むことができたような気がします。
橘奈穂(たちばななほ)斉藤愛美役
愛美という役は、二幕から突然出てきて、物語の「転」のきっかけとなる役なのですが、
それまで少し緩みかけていた空気を一気に引き締める力があります。橘さんの演じる愛美はまさにそうでした。
かつて夫を慕う良き妻だった愛美、それが夫の死をきっかけに闇に染まってしまった様子は、演技という芸術のひとつの完成形だったと思います。
また、偶然か必然かはわかりませんが、この愛美にもあみりに通ずる「品」があり、それが、これまでにない親子像を生み出していたように見えました。
高野将太(たかのしょうた)斉藤良介役
高野さんの良介は、正直に言ってしまうと、良介らしくない良介、でした。
今回、カラヤン組の男性陣はかなり“濃い”人が多く、秀一との一連の絡みも、良介次第では観客への衝撃が強くなりすぎてしまう恐れがありましたが、あの良介のお陰でそうならずに済みました。
近藤優史(こんどうまさふみ)滝沢友章役
滝沢、という役は先述のようにこの作品の外側の人物なのですが、彼は、ほぼ完璧に外側にいて、それが、この重いストーリーからいっ時感情を引き離してくれる役割を果たす結果になりました。
一見するとただふざけているようにも見えますが、彼の舞台上での反射神経と瞬発力はアスリートと形容しても差し支えがなく、おそらく稀に見る才能です。私は彼がこの先最低限の運に恵まれ、成功することを期待しているし、祈っています。
塩崎翔太(しおざきしょうた)悪魔役
塩崎さんの悪魔の雰囲気は、ギリシャ神話の登場人物のような面白さがありました。
しかし、実際に動き、話す悪魔はそのイメージとは良い意味で違って、決して人間に深く感情移入しないような、人間と適度に距離を取るような、悪魔とも神様とも有機的とも無機的とも言えない存在でした。それが、面白さだったと思います。
悪魔には、表出しないにしても、必ず唯との出会いから唯との別れまでの間に悪魔なりのストーリーがあります。彼の悪魔は、これまで無数の人間と出会ってきたうちの一人でありながらも、唯をひとりの人間として捉えて、少ないながらに、唯に対しての感情移入が見え隠れする様は、秀逸といって差し支えないと思います。
リヒター組/カラヤン組
塩山穂乃花(しおやまほのか)橋本唯役
塩山穂乃花(しおやまほのか)橋本唯役
この唯、という役はきっと誰にでもできる役ではないのだと思います。「役を理解していれば」「ルックスがイメージに近ければ」できるものではないのです。
唯役を務める上で必要な要素が一体なんなのか、私にはわかりませんが、でもきっと、(神様はそれを知っている)。そう思えた公演でした。
正直、今回彼女がこの役を演じ切ったとはこれっぽっちも思っていません。
でも、「私はゆるしたい(中略)できることならこの世の全ての人たちを」という言葉を吐くことを神様から許された人間であったことは確かです。
この作品は「レクイエム」同様、とても大きな視点で描くべき作品です。この作品をより完成に近づけるために、彼女の努力が必要だと思っています。
2022年12月28日 安城龍樹
ーー主な使用楽曲
「レクイエム」より「入祭唱」「涙の日」「賛美の生贄と祈り」「祝福される者」
作曲:ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
リヒター盤(1962年) 指揮:カール・リヒター 演奏:ミュンヘン・バッハ管弦楽団
カラヤン盤(1961年) 指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン 演奏:ベルリンフィルハーモニー管弦楽団
「天気雨」 リヒター組メインテーマ
「ながれぼし」 カラヤン組メインテーマ
「ゴリウォーグのケークウォーク」 作曲:クロード・ドビュッシー
「椿姫」より「前奏曲」「乾杯の詩」 作曲:ジュゼッペ・ヴェルディ
「Rainbow」 作曲:まつもとたくや
「Beethoven's Silence」 作曲:Ernesto Cortazar
「Sometimes I Feel Like A Motherless Child」 演奏:チャーリー・ヘイデン、ハンク・ジョーンズ
「マーラー交響曲第五番」より「第四楽章」 作曲:グスタフ・マーラー 指揮:ズービン・メータ 演奏:ロサンゼルスフィルハーモニックオーケストラ
「オンブラ・マイ・フ」 作曲:ゲオルク・フードリヒ・ヘンデル
衣装プラン・振付・制作事務:税所千珠
衣装製作:税所千珠、榛名さと
フライヤーデザイン:大関愛
照明操作:一条政美
音響・ヴィジュアル撮影:安城龍樹
制作協力:劇団東京座
収録・編集:大関愛
相談役:清水ゆかり
企画・制作:プロジェクトアクト東京
作・演出:安城 龍樹
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